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有栖川宮熾仁(たるひと)親王

有栖川宮家は書道と歌道を家学とする名門で、四親王家のひとつであり、8代目幟仁(たかひと)親王の代に有栖川御流を確立し、幟仁親王は明治天皇の書道と歌道の師範を務められていました。

天保6年(1835年)幟仁親王の第一王子として京都に生まれた9代目の熾仁(たるひと)親王は、父幟仁親王のあとを継いで明治天皇の御手習助教から師範となられました。

このように、明治天皇とゆかりの深い有栖川宮熾仁親王は、慶応3年(1867年)12月、王政復古と同時に後新政府の総裁に就任し、慶応4年(1868年)戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが起こると東征軍大総督に任命され、明治3年(1870年)4月には兵部卿となり陸海軍を創設。翌4年7月、福岡藩知事となられ、同8年7月には元老院議官、ついで議長を務め、同10年(1877年)2月の西南戦争では征討総督となり、鎮定後には陸軍大将に任ぜられました。

また、明治13年2月、左大臣を兼任、国会開設、憲法制定に寄与され、同15年には天皇の名代としてロシア皇帝の即位式に参列し、帰途欧州各国を訪問して親善に努め、同18年、新設の参謀本部長となり、近衛都督、参謀総長を歴任されるという、たいそう功績のあったお方でした。

熾仁親王は別邸(現在の舞子ビラ神戸の場所)ができあがった明治27年の暮れ、日清戦争で陸海空の総参謀長に任命されましたが、広島大本営にご出仕中にご病気になられ、翌年1月に建ちあがったばかりのこの別邸で療養されましたが、同月15日ご逝去されました。(享年61歳)

別邸竣工に至るまで

明治21年の夏、熾仁親王が妃殿下とご一緒に避暑に来られ、現在の舞子ビラ神戸のある柏山へお登りになられた時、丘陵を登りつめ、ふりかえってご覧になった海の景色に「これこそ天下の絶景だ」と感嘆され、たいへん気に入られました。そして明治26年には柏山にご別邸の建造を始められ、造成中には熾仁親王も自ら工事現場にお越しになり、入念に点検されるほどのご熱心さで、瓦葺2階建ての建物はすべてが木曽御料林から精選した桧材でした。翌年の秋にはようやく別邸の建物が竣工、面積1,234㎡のご別邸は、後の昭和9年1月、史蹟名勝記念物として文部大臣の指定を受けました。

有栖川宮ご別邸

皇室の緑の地、舞子ビラ神戸

この地は皇室とはたいそう関係が深く、熾仁親王がご逝去された後も弟君の威仁(たけひと)親王は兄殿下への追慕の情もおありだったのでしょうが、この別邸をたいそう気に入られてしばしばご逗留になられました。威仁親王の第二王女は、徳川慶久公に降嫁されました。最後の将軍である徳川慶喜の孫にもあたる、そのお子さまが高松宮喜久子妃殿下です。

喜久子妃殿下は「高松宮妃癌研究基金」設立に関与され名誉総裁となり、日仏会館の総裁として日仏交流につくされていましたが、平成16年12月18日にご逝去されました(享年92歳)。明治天皇もたいそうこの別邸を懐かしがられて、明治33年4月兵庫県下行幸、同35年11月の陸軍特別大演習、同41年1月の海軍特別大演習の際など、いずれもこの別邸にお泊りになられました。

昭和天皇も東宮(皇太子)時代の大正5年4月関西地方行啓のみぎりご宿泊、昭和29年4月兵庫県緑樹祭式典のときには、天皇皇后両陛下がお泊りになられました。

大正から平成の時代

大正6年7月には住友家がこれを譲り受けて、迎賓館として用いられました。

終戦直後、米軍に接収され館内は洋式に改められ、昭和25年解除後ホテルトウキョウの支店となりましたが、昭和34年11月にオリエンタルホテルがこれを引き継ぎ「オリエンタルホテル舞子ビラ」と名付けて経営されていました。昭和41年11月に神戸市が買収、同45年10月「市民いこいの家 舞子ビラ」として鉄筋コンクリート造5階建で新発足しました。その後、昭和56年3月に別館8階建を増館し、有栖川宮ご別邸跡としての由来で広く親しまれてきました。

現在の本館は、明石海峡大橋開通の年の平成10年9月13日にグランドオープンいたしました。

昭和30年代のレストラン風景